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2007年05月31日

小説「正ちゃん ああ ふるさと」  台風

                 作:中馬正弘(なかままさひろ)

  台 風

 雲の流れが速い。樹木が揺れている。台風銀座沖縄に、台風5号グロリアが近付いている。米軍統治下の沖縄では、台風に米国女性の名前を付けるようになっていた。――女性のように、しとやかに過ぎ去るのを願ってか、それとも、女性のヒステリーが台風を連想させるのか。
 台所で調理をしているチルーが、充を呼んだ。
「水ガメ空っぽだから、水汲んできて」
 井戸水は冷たいが、石灰が多くて飲めない。飲水は、百メートル先にある泉の涌水を使っていた。 水汲みは、充の仕事である。充は、その仕事を、そろそろ正に分担させたいと思っていた。涌水は、年中冷たくて甘みがするくらい、おいしい。後に、正の一家が石川に移ってからも、時々、汲みに来るくらいだった。
「正ちゃん、手伝って」
「正ちゃんには、まだ早いじゃないかい?」
「大丈夫だよ、僕だって6才の時から一人でやっているんだから」
 2才の時、栄養失調を患った正にとって力仕事は苦手だった。それでも正は、充に言われるままに、水汲みに外に出た。
 正と充は、一斗潅で作ったバケツを棒に下げて泉に来た。充は、バケツをそのまま突っ込んで水を汲んだ。8割ほど水の入ったバケツを棒に下げ二人で担ぐ。バケツは充の方に寄せて下げている。だが、充と正は、五才も年が違う。体力のない正には、耐えがたいほど重い。棒が肩に食い込む。 水ガメは、バケツで7、8回運ばないと一杯にならない。 2回目までは、途中で休むことなく運んだ。3回目の時である。正は肩の痛みが耐えられない。
「少し休もうよ」
「もう少しだ、我慢して」
 充は、聞いてくれない。――もうだめだ、死にそうなくらい肩が痛い。 正は突然、歩みを止めて腰を屈めた。 バタンと、地に落ちたバケツが大きく揺れた。充は、そのバケツを手で押さえたが、水は半分位こぼれてしまった。水ガメまで後わずか、4、5メートルである。充は思わずカッとなった。
「何だ、後わずかじゃないか!」
 言葉も終わらないうちに、正の頭をポカリとやった。「うわ-ん」と正は、泣き声をあげて家に飛び込んだ。
「どうしたの?」
 チルーが、豆腐臼を挽く手を止めて聞いた。
「充ニーニーにぶたれた」
「充、弟をいじめたらダメだよ」
 チル-は、そう言いながら、珍しい事だと思った。充は、気は短いが弟をいじめる事は決してしない。年の差があるからか、充二が亡くなって後にすぐ生れた弟だからか、普段は弟思いである。その兄のお陰か、正は少年の頃、他所の子にいじめれた記憶が全くない。 今日の充は、よほど頭に来たのだろう。つい手が出た。
〈充は、この日の事は全く記憶になく、一度も弟を殴った覚えはないと言う〉
 しばらく正が居間でメソメソ泣いていると、「正ちゃん、闘魚捕りに行こう」と、従弟の光男が誘いに来た。正は急いで着物の裾で涙を拭いた。
「うん・・・・・・。お母、行ってくるよ」
 泉の水は、こんこんと涌き出ていて、水路を通って田んぼを潤おしている。素堀の水路には水草が生え、魚たちの恰好の住家になっている。水路の終点は溜池になっている。
 正と光男は、途中で空缶を拾って水路に来た。二人は草履を脱ぐと水路に降り、冷たい水に両手を突っ込んで、魚を追い始めた。光男はすぐ一匹捕まえて、水の入った缶に入れた。
「光男、どうして捕まえている?」
 不器用な正は、なかなか捕まえきれず、光男に聞いた。
「両手で水草に追い詰めてから、捕るんだよ」と、実際にやって見せ、2匹目を捕って缶に入れた。
 正も、その通りやってみた。追われた魚が、草にまとわりつかれピクピクしている。一匹捕らえて要領を覚えると、更に数匹捕ることができた。缶が一杯になると、二人は水路から上がった。 畦道に座って、缶の中のトーイユを数えた。12匹はいる。
「正ちゃん、底無し田まで行ってみないか?」
「ダメだよ。お母に、危ないからそこには行くなと言われているよ」
「大丈夫だよ。すぐ近くじゃないか。いいこと見せてあげるよ」
 光男が先に歩き出すと、正は、闘魚の入った缶を抱いて、渋々ついて行った。 美久地の田は、小さく畦道で仕切られている。畦道の二つ向こうに底無し田はあった。大人の背も立たない底無しの田で、周囲は草が生えている。 光男は、素っ裸になり、両手で畦道の草を握かむと田に入ろうとした。
「危ないから、やめて」
 正は止めたが、光男は構わず中に入り、頭まで沈んでみせた。泥から頭を出すと、片手を離して顔のドロを拭いた。驚いた正は、さらに止めた。
「もういいから、上がってよ」
 しかし、光男は、ますます面白がって、数回沈んだり上がったりして見せた。
「もう上がるよ」
 数分もしてから、光男は、やっと底無し田から出ようとした。ところが、泥で手が滑って、握かんでいる草を離してしまった。みるみる頭が沈んでいく。もがいている腕が沈んでいく。ビックリした正は、すぐに腹ばいになって左手で草を握かみ、右手を伸ばした。光男の指先が沈んで行くところだった。 正は、泥に手を突っ込んだ。間に合った。光男の手があった。必死に引き上つけた。そして正の腕を手繰って這い上がって来た。 二人は畦道でひっくり返って、大きく息をを弾ませながら、流れる雲を仰い
でいた。数分してから、光男は水路の水を浴び、泥を落として着物を着てから言った。
「正ちゃん、闘魚は全部あげるよ。僕はいっぱいあるから」
 家に帰ると正は井戸のそばにクワで土を掘った。捕って来た闘魚を池を作って飼うつもりだ。筵の大きさぐらいの池を作ると、井戸の水を汲んで入れ、そこに缶の闘魚を放した。澄んだ水の中の闘魚は美しい。青と橙色が、虎模様をなしている。闘魚は、名前のように闘争的な魚で、数倍も大きいフナも攻撃する。生命力が強く、小さいビンに入れ、餌を与えなくとも一月は生きる。肺呼吸をし、水から飛び出しても、数時間は生きている。 正は、じっと眺めていた。
「正ちゃん」
 いつの間にか、光男が背後に来ていた。
「松小が溜池に行こうと呼んでいるよ」
 先程の事は、まるで気にしていない。 正は迷った。光男とは、今日はもうコリゴリだと思った。もっとじっくり、闘魚を見ていたいとも思った。 しかし、松小が呼んでいる。おとなしい正は、自分の意志をハッキリしきれない。結局、ついて行くことになった。
「お母、泳いでくるよ」
「また、遊びにかい。台風が近付いているから、早く帰っておいで」
 北上中の台風五号は、狙いを定めたかのように沖縄に向かっている。
 溜池には、少女たちが先に来て泳いでいた。本家のカミー、瓦屋の清子、ヨシ子その他数名で、カミーがリーダーである。カミーは唖だが、勘がよく、明るい性格で誰からも好かれる子だった。
 小一時間も水遊びをすると、カミーは身振りで帰ろうと合図した。少女たちは、池から上がり、体も拭かずに着物をつけると、短い坂道を登って家に向かった。 松小の一団は、ペチャクチャおしゃべりをしながら帰ってくる少女たちを、松林の近くで見た。前方から来る少女の一団を見ると、松は号令をかけた。
「向こうから女たちが来る、捕まえて抱いた奴のものだ。かかれ-!」
 一団は「うわー」と散って、少女たちを襲った。正は、松の前でうろうろしていた。
「正ちゃん、お前も行くんだ。」
 正は、ちょこちょこと走って、皆の後を追った。 少女たちは、悲鳴をあげて逃げ回った。畑に飛びおりて逃げて行く者もいる。
林の中に逃げ込む者もいる。少年たちは一人ひとり追いかけていた。 ヨシ子が、一番後の方から来た。小道をそのままつっぱしってくる。正は、両手を広げて行くてをさえぎった。目の前で、ヨシ子が立ち止まると、抱きついた。ヨシ子は、逃げようとはしなかった。だが、その目はキッと正を睨んでいた。ドキッとした正は、すぐ手をゆるめた。ヨシ子は、正の側を走って立ち去った。
 少女たちを追いかけ、抱きついたりして散っていた少年たちは、再び松のところに集合した。
「どうだ、皆やったか」
「あゝ、やったよ。俺は清子を抱いたぞ」
「俺はカミーを抱いたぞ」と、それぞれ得意げに話している。
 正も、か細い声で言った。
「僕もやったよ」
 それから数分後、池では少年たちが素っ裸になって泳ぎ回っていた。正は、まだ泳げない。その正の背後から、樽がふざけて抱きついた。頭まで沈んだ正は、濁った水をたらふく飲んだ。
「ぷわー。樽、ダメじゃないか」
 水から顔を出した正が、拳を上げると樽は小さい滝の落ちているところへ逃げた。
 空は雲に覆われ、風は一段と強くなっている。まだ雨は降っていない。
少年たちは、池でたっぷり遊んで陸にあがっても、また、草むらでふざけあっている。誰一人、帰ろうとしない。 心配症のチルーは、正の帰りが遅いのでイライラして待っていた。そこへ、正に抱きつかれたヨシ子が来た。ヨシ子は、父親の布正の従兄妹にあたるが、正とは同じ年だ。
「おばさん、正ちゃんは悪い子だよ」
 先程の事を、一部始終チルーに告げた。言葉ほど怒っている風には見えない。
「分かったよ。ほんとに悪い子だ。今日は、うんと叩いてやるよ」
 今日のチルーは、一段と機嫌が悪い。先程も、充を叩いたばかりだ。リスのように臆病な正は、まだ叱られた事はない。親の機嫌を損なうような事は決してしなかった。充が叱られている時は、とばっちりを食わないように外で遊んでいた。チルーの機嫌の悪いときは側にいることはなかった。 一月ほど前、正が、ヨシ子とおはじきをして遊んでいるとき、チルーの大声がし、台所から逃げてきた充が、おはじきをけ散らして、外に飛び出した。チルーが追ってくるのを見た正も、外に飛び出し、充の後を追って西の山まで逃げたことがある。 この日は、遊びに夢中になって、帰りが遅くなった。チルーがカンカンに怒っているのも知らず、元気よく帰って来た。
「ただいまー」
 縫物をしているチルーは返事をしない。正は、「おやっ」と思った。
「お母、今日は面白かったよ。あー腹へった。何か食べるのない」
 正が台所に向かうと、チルーは、針と着物をほおり捨て、いきなり立ち上がった。
「何が、ただいま―だ。悪いことして。何時になると思うんだ」
 正は、母の顔を見て驚いた。目が吊りあがり、両目のそばは、青筋がはしり、顔は鬼のように真っ赤になっている。――これは大変だ、逃げなければ。 その正の腕を捕まえようとチルーは手を伸ばした。正は、後にパッと飛びのいた。また伸ばしてきたチルーの腕をスルリと抜け、その背後に回ると、そのまま裸足で外に飛び出した。チルーも裸足で飛び出して、後を追った。
 チルーは顔をあげ、腹をつきだし、両手を横に振って懸命に追った。しばらく追ったが、太っているチルーの足では子供に追い付けない。広場まで来ると、すぐに諦めた。――いつもは動きの鈍い正が、こんなに逃げ足が速いとは。 チルーは、半ば驚き、半ば悔しくなった。
「今日は、ご飯あげないからねー」
 正は、母の声を背に、後も振り返らずどんどん逃げた。
――自分を追っているのは、いつもの優しい母ではない。あれはきっと鬼だ。捕まったらおしまいだ。そう思うと必死だった。
 部落入り口まで来た正は、母が追って来ないのを確かめると、やっと立ち止まった。そこには広い屋敷に果樹をいっぱい植えた、丸タンメーの家がある。正は、その屋敷に入っていった。丸タンメーは、頭の毛は一本もなくツルツルで顔も丸い。タンメーとは老人という意味の方言である。
「正ちゃんじゃないか。どうしたんだ、そんなに息せき切って」
「うん。お母に怒られたんだ」
「そうか、そうか。こっちにおいで、おいしいバンシルーあげよう。さっき庭の木から取ったばかりだ」
 正は、タンメーからバンシルーを受け取ると一気に食べた。
「おや、おや、よっぽど腹がへっているようだな。おイモもあるよ。お昼の残りだけどな」
 一人暮らしの丸タンメーは、話し相手ができて喜んでいた。正を相手に、いろいろと昔話を聞かせてくれた。外の風音が強くなってきた。
「正ちゃん、もうお帰り。お母も、もう怒っていないよ。台風も来るしな」
「うん。タンメー、ありがとう」
 正は、お礼を言って外に出たが、家には帰らなかった。あの母の顔を思い出すと、とても帰れない。とぼとぼと部落入り口を出て大通りに出た。
 家では台風対策におおわらわだった。 茅葺木造の家は、台風の度に補強しなければならない。ジィさんは、ヤギ小屋に古い板を打ち付けていた。布正は、屋敷の裏の薮から四、五本細長い木を切り倒してきて、枝を切り落として細長い棒にした。そして、充を手伝わせて、木の棒で居間の戸を裏と表から挟んで、戸の隙間から細い麻縄を通して、棒と棒を堅く結んだ。 チルーと美江は、イモや野菜を洗っている。台風が過ぎるまでの食糧だ。一昼夜分は用意しておかねばならない。 布正は、麻縄で棒をくくりながら、チルーに聞いた。
「正ちゃんは、どうした」
「さっき、叱ってたら逃げて行ったよ」
「あの子は、叱られる子じゃないのに」
「それは、分かってはいるけどさ」
 チルーも、子供の性格はよく知っている。だんだん心配になって来た。
「充、探してきて。光男か清栄の家にいるかもしれないよ」
「うん、探してくる」 
 充は、光男や清栄の家や、心当たりの所は探してみたが、見つからない。30分程探して戻って来た。
「お母、どこにもいないよ」
「どこに行ったのかね。お母も一緒に探すよ」
 充とチルーは、部落の家を一軒一軒訪ねた。どこの家でも、暗くならないうちにと台風対策におおわらわだった。何軒も回った後に、丸タンメーの家の戸をたたいた。
「タンメー、名嘉真小だけど、正ちゃん見なかったかねー」
 戸は、すでにクギが打ち付けられている。タンメーの声が家の中からした。
「その声はチルーかい。正ちゃんは来ていたけど、さっき家に帰ったよ」
タンメーは、正が、すでに帰ったと思っていた。
「それが帰っていないんですよ」
「そうかい、てっきり帰ったと思ってたのに。それは心配だね」
 それから、近くの儀信の店に入った。日常品をちょっと置いてあるだけの小さな店である。正を見なかったかと聞いたが、儀信の妻の春子は見なかったと言う。
「一体、どこへ行ったんだろうね」
 二人が帰ろうとすると、奥から儀信が呼んだ。
「ウフガマに子供がいたよ。どこの子かと思ったが、正ちゃんだったかも知れないね。遠くてよく見えなかったけど」
 儀信は、ヤギの草をいっぱい刈って帰るとき、ウフガマの底にたたずんでいる子供を見て不審に思っていた。
「きっと正ちゃんだ。儀信さん、ありがとう」
 充とチルーは、急いでウフガマに向かった。
 正は、丸タンメーの家を出ると大通りを渡って、隣り部落の東恩納のウフガマまで来ていた。 ウフガマは石切場の跡である。正は最初、戦争の時にバクダンが落ちてできたガマだと思っていた。しかし、松に隕石が落ちてできたガマだと教えられ、今ではそう信じこんでいた。それは、幅も奥行きも百メートル程の広さで、20メートルの深さまで掘られ、三方の石の壁は断崖になっていた。東の方は岩山になっていて、ウフガチと呼ばれていた。大通りに面した南側の方は、荷馬車が入れるように斜面になっている。底は、ところどころ水溜まりになっているが、草木は生えていない。カエルが鳴いているだけである。 正は、斜面から下に降り、取り残された大きな石の上で膝を抱えて座っていた。一匹のヒキガエルが、大石に上って来て正とにらめっこをしている。風はウフガマの中でウズを巻いている。正は、強風にさらされながら、体を丸めじっと座っていた。「正ちゃーん」と風に乗って声がした。
――あ、充ニーニーの声だ。振り返ると、「正ちゃ―ん」とチルーが呼んだ。
「しまった。お母だ」
 正は、カエルより先に大石から飛び降りた。どこに逃げようか思ったが、逃げ場がない。大石に隠れた。更に、チルーが叫んだ。
「もう怒ってないから逃げないで―」
 正は、石の側から頭を出した。
「ほんとうー。ほんとに怒ってない―」
「ほんとだよ―」
 チルーの声は泣き声になっている。充も叫んだ。
「大丈夫だから、上がっておいで―」
 正は、やっと石の陰から出ると斜面を登り始めた。充が途中まで降りて来て、正の手を引いて、チルーのところに連れて来た。チルーは、今にも逃げ出しそうな正の手を捕まえてほっとした。正も、母の手の温もりを感じてやっと安心した。
 「バカだね。こんなに遠くまで逃げなくてもいいのに」
「だってお母が、恐わかったもん」
 帰る途中、とうとう雨が振り出した。風も急に勢いを増した。3人は追われるようにして家に帰った。 全ての戸は固定され、台所の小さい戸だけが開閉できた。3人は潜るようにして入った。美江が手拭を持ってきた。
「どこにいたの?」
「ウフガマまで行っていたよ」
「あんなに所に!」
 美江は、ズブ濡れの正の体を拭いて、着替えてあげた。
「よかった。早く見つかって。夜になったら大変だった」
 一家は、正が無事に帰って賑わいをみせた。子供たちは、台風の脅威より、一家がそろって、はしゃぎ回っている。
「夕飯できているから、食事を済ませて早く休みましょ」
 台風の時は、じっと過ぎ去るのを待つ以外にない。 ランプの火が揺らいで入る。板間からピユーピューと風が入り込む。真夏なのに肌寒い。一家は毛布を出して被った。 夜になると、もの凄い風になった。ゴーゴー、ヒューヒューと不気味な音が
聞こえる。得体の知れない猛獣が暗闇で荒れ狂っているようだ。グロリア嬢は、手の付けられないヒステリーぶりで暴れ始めた。 正は、奥のジィさんの部屋で寝た。――今日は朝から、いろんな事があったな。底なし田でのこと。ニーニーに殴られたこと。ヨシ子のこと。母に追われたこと。正は、台風のようにめまぐるしかった一日を思いだしながら、いつしか寝入った。
 明け方、バリバリッという物凄い音で目が覚めた。ジィさんも起きている。 壁は揺れ、家はきしむ。屋根の音が大きい。やがてバシッバシッと、一段と大きい音がすると、天井から雨が落ち、風が吹き込んで来た。屋根の茅の一部が吹き飛ばされたようだ。 ジィさんと正は、毛布を抱いて居間に逃げ込んだ。布正が起きて、明かりをつけた。ジィさんと正は、充と正三の側に寝た。
 夜は明けたが薄暗い。鶏も鳴かない。セミの声もメジロの声もない。台風グロリアは思いのまま暴れている。戸はガタガタと鳴り、今にも吹き飛ばされそうである。家の後の山羊小屋でバタン、バリバリッと音がした。山羊が鳴いている。充が、台所の壁の節穴から覗いてみた。
「うひゃー。小屋がなくなっている」
 便所は横倒しになり、山羊小屋は吹き飛ばされて、跡形もなく山羊は片隅にうずくまって鳴いている。
「布正、山羊を家にいれよう」
 ジィさんと布正は、ミノを着ると台所の戸を開けて外に出た。庭の木が折れている。風雨が頬をたたく。2頭の山羊は、重なるようにうずくまっていた。 二人は、山羊の首を抱いて起こし、引きずるようにして家に入れ、台所の土間に放した。
「誰かボロ切れ持って来て」
充と正が、布切れを持ってきて、山羊の濡れた体を拭いてやった。山羊は脅えたようにまだ鳴いている。 正午近くになって、急に風の音が小さくなってきた。間もなく、雨もやみ風も静まり、空が明るくなった。上空に薄い白い雲が現れた。台風五号は沖縄に上陸し、中南部は台風の目に入ったのである。台風銀座とは言え、上陸し、目に入るのは希である。グロリア孃は、しばし休憩に入った。 ジィさんと布正は、外に出て屋根に登った。茅が吹き飛ばされて大きな穴があいている。二人は、草を刈って穴に突っ込み応急処置をした。 子供たちは外に飛び出した。ミカン拾いに行くのだ。
「すぐ戻っておいでよ」
 ジィさんは心配している。台風は返し風が怖い。台風の目に入っている時間は短い。本家の屋敷は、種々の果物の木で囲われている。風が強く吹いた後は、多くの果実が落る。子供たちは競ってその実を拾いに行く。 松や光男は、既に実をいっぱい拾って帰るところだった。後から、布晋と仁王も来た。普段はめったに口に出来ないオートーやバンシルーがあちらこちらに落ち、枝や落ち葉に覆われていた。 充と正と正三は、手に持てるだけ拾って帰って来た。
「たくさん拾ってきたよ」 
 美江が、拾ってきた果物を洗って食卓に出すと、皆んなで、食事がわりに食べた。 晴間はつかの間だった。やがて、空は真っ暗になり再び強風が吹き始めた。一時間もすると、さらに物凄い暴風雨になった。今度こそ家が吹き飛ばされそうな勢いである。 親たちは、ハンマーと釘を持ち、更に戸や板に打ちつけている。床の隙間から強烈な風が筵を吹き上げたりする。子供たちも先程の元気はどこえやら、部屋の片隅で、毛布に足を突っ込み寄り添って座っている。 正午を過ぎても、風の勢いは衰えることはなかった。 ドンドンと戸をたたく人がいる。台所の戸を開けると、布正の弟の清樽一家が、ズブぬれになって地に這っていた。布正は、一人ひとり家の中に引きずり入れた。
「どうしたんだ?」
「屋根が吹き飛ばされた」
 裏の高台にある清樽の家は、トタン葺きだった。そのトタンが、全部吹き飛ばされ、家は傾いていた。一家は、暴風雨の中を命からがら避難して来たのだ。 それから2.3分もしない内に、「布正ヤッチ―、布正ヤッチ―」とカン高い呼び声がした。
「誰かね。台所に回ってくれ」
 布正は、戸に顔を近付けて叫んだ。
 2本の棒で押さえている台所の戸を開けると、儀信が風雨と共に転がり込んで来た。
「大変だ。丸タンメーの家が潰れている」
「それは大変だ。すぐ行くから、大屋のヤッチーも呼んできて」
 猛烈な風の中、布正と清樽、儀信は這うようにしてタンメーの家に来た。ヤッチ―もすぐに来た。 タンメーの家は茅葺屋根が吹き飛び、横倒しになっていた。タンメーの姿が見えない。
「おーい、丸タンメー、どこだー」
「ここだー」
 風雨の中、倒れた壁の中から僅かに声が聞こえる。
「大丈夫か―」
 布正とヤッチーが壁を起こした。壁は強風で吹っ飛んで行った。タンメーは柱に脚を挟まれ動けない。
「皆、手伝ってくれ」
 後から来た善孝も加え5人掛かりで柱を取り除いた。儀信がタンメーを担ぎ、店の入口を開け土間に降ろした。店と居間は続いている。奥から春子が手拭やボロ切れをもって来た。春子はタンメーの体を拭きながら、様子を聞いた。
「わしは大丈夫だ。脚をちょっと打っただけだ」
 家は全壊したが、幸いにもタンメーの怪我はたいしたことはなかった。脚を打撲しただけで済んだ。タンメーは儀信夫婦に任すことにして5人は家に帰った。我家も心配である。 台風は、その日の夕方まで荒れ狂った。
 翌朝、台風は去り、不気味なほどの静けさが戻った。
 風速50メートル、瞬間最大風速65メートルを記録した台風五号グロリアは暴れるだけ暴れ、多くの被害を残して去って行った。 美久地での被害は全壊3、半壊5。残りの家も、全てが多少の被害をこうむった。幸いにも、美久地ではたいした怪我人は出なかったが、沖縄県全体では数十人の死者と多くの負傷者をだし、家屋も作物も甚大な被害を被った。 首里では、家もろとも吹き飛ばされ、一家5人が即死。小禄、北谷、中城では火災が発生し、36戸が全焼。泡瀬の海岸近くの美浦部落は、全部落300戸がなぎ倒された。 一週間後の8月1日付けの「うるま新報」は、死者37名、負傷273名、全壊7564戸、半壊14839戸、と報じた。――大自然の前には人間の力は、かくも無力かと思うときがある。

 台風が去って清樽一家は自分の家に帰り後片づけをして、弟の布朝のところで当分世話になることになった。 布正一家も台風の後片づけが終わり、お昼の食事の時。チルーがつぶやいた。「せっかく植えたオクラも豆も全部ダメになって、これではいつまでも貧乏暮らしだね。台風が来なくても、やせた土地では幾らも収穫はないのに・・・・・」
「嘆いても仕方ないよ。茶園は大丈夫みたいだし、人生いつまでも冬がつづくとは限らんよ。いつかはきっと春が来るよ」
無学のジィさんは楽天家である。 美江が疲れた顔で言った。
「沖縄もサイパンも戦争だけでなく、台風にも痛めつけられて、本当にいやになるね。戦争も台風もなくならないものかね」 
 布正は、憤慨して言った。
「戦争は、もうコリゴリだよ。これ以上、勝手に戦争なんかさせてなるもんか。
台風だっていつかはきっと来なくなる。皆で祈っていけば、この沖縄が、戦争も台風もない、住みよい所になる日がくるよ。俺はそう信じている」



Posted by j.hero at 11:22│Comments(0)
 
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